鈴木一史 代表取締役 / 左官職人
土を捏ねて、火をおこして、気づいたこと——千葉・長南町かまどワークショップ
- ワークショップブログ

きっかけは「ちょっと遠征」だった
私の地元、神奈川県三浦市のご近所にある、ソルトファミリーファームというコミュニティで、昨年かまどを二つを作りました。
そのご縁をきっかけに、今度は千葉県のシンガーソングライター・引田香織さんのコミュニティスペース「おん」からも「かまどつくりワークショップをやってほしい」というご要望をいただきました。
東京湾フェリー、あるいはアクアラインを渡って千葉へ。
「ちょっと遠征だな」と思いつつも、30年左官職人をやってきた身体の底のどこかで「まあ、どうにかなる」という根拠のない確信があった。
しっかりと準備はしたけれど、それ以上に構えることもなく、すんなりと当日を迎えました。
5月17日を準備日、18日(月曜)を本番のワークショップとなりました。「んん?月曜日に人が集まるのかな。。。」と一瞬思ったのですが、それがこの場所の性質を後になって教えてくれることになりました。
準備日には七名の方が手伝いに来てくれて、話をしながらゆっくりと段取りを整えた。あの穏やかな時間も、振り返ればこのワークショップの一部でしたね。。。
長南町という場所の発見
初めて訪れた長南町。人口はたしか6,000人ほどの小さな町だ。
東京湾フェリー金谷港から車で一時間程。長南町自体は初めてで、着いてみてはじめてわかることがたくさんあった。
一番の驚きは、ここが米どころだということだった。コシヒカリが新潟よりも早く収穫できるという。そして米どころということは、藁がある。粘土もある。かまどを作るための素材が、すぐそこに揃っている。
「なんと、それを先にそれを知っていれば、地元の素材で作れたな。。。。。」と、終わってから気づいた。次に来るときは、そこから始めよう。
三浦も都心から一時間の場所にあり、ある意味では似た立ち位置かもしれない。(都心に近い田舎)でも長南町の空気感は少し違った。
隣近所との距離がゆったりしていて、詰まりすぎず、離れすぎない。
三浦のような都市近郊の田舎とも、深山の過疎地とも違う、ちょうどいい余白のある場所だなと感じました。
都市と地方のハイブリッドな暮らしをしてみたい人、二拠点生活の入口を探している人にとって、長南町はとても間口の広い場所なのかもしれない。そしてもう一段奥に入れば、もっと程よい距離感の中で生きていける場所が日本にはたくさんあるのだろうなと、ぼんやり思いました。
月曜日に集まった人たち
2日目の本番当日は17名の型が参加し、三つのかまどを仕上げた。
神戸からわざわざ足を運んでくれた方もいて、今回一番遠くから来てくれた参加者だった。ソルトファミリーファームのかまどをどこかで目にして、念願かなって参加してくれたらしい。そういう話を聞くと、かまどというものが持つ引力のようなものを改めて感じる。
参加者の多くは、古民家を手に入れた人、地域の空き家を活用している人、移住してきた人たちのようでした。
共通しているのは、「イベントとして楽しみたい」という感覚ではなかったことだ。かまどが本当に必要だった。火が生活の中に必要だった。そういう想いが、場の空気に滲んでいました。
いま政治や社会に対して声を上げても、相手が大きすぎてどこにも届かない感覚がある。そんな時代に、小さなコロニーのような集まりがある。同じ感覚を持った人たちが集まって、畑でとれたものを分け合い、貨幣を介さない形で何かが循環し始める。長南町には、そういう可能性がすでに芽吹いているように見えた。月曜日に人が集まるのも、生活に直結している。そういう暮らし方をしている人たちなのだと、あとで腑に落ちました。
神戸から来たけんけんさんの話
参加者の中でとくに印象に残った話がある。神戸から来たけんけんさんが、タケノコのことを教えてくれた。
タケノコがとれる土地を持っていて、会う人会う人、惜しげもなくみんなにあげているという。
「あげると、必ず何か別のものが返ってくる」から。
タケノコをあげた相手からではなくても必ず、どこか別のところから、何かが巡ってくる。
これを聞いたとき、深いなと思った。
不足を感じると、人は蓄えようとする。取っておこうとする恐怖心が、次の恐怖心を呼ぶ。
けんけんさんの話を通じて、「分け与えれば余って、取り合えば足りない」という言葉の本質に、ようやく触れた気がした。
きれいごとではなく、実感として。
二日間の食事のなんという彩の豊かさ
ナフサショックと、命を守るOSの話
ちょうどいま(2026/5/24)、建築業界ではある問題が深刻になっている。
中東の情勢不安によってナフサが不足し、その影響が建材不足というかたちで現場にじわじわと押し寄せてきている。
これをひとごとのように眺めていると、不思議な連鎖が見えてくる。
資源が足りなくなる。手に入れようとする動きが重なる。奪い合いになる。そしてそれが国家の規模に膨らんだとき、戦争になる。
でも私は、それを「人間の自分勝手さ」として切り捨てる気にはなれない。
現場を抱える経営者が建材を確保しようとするのは、スタッフを守るためだったり、家族を守るためだったり。
大切なものを失いたくないという、その一心からの行動だ。
国だって、根っこは同じなのかもしれない。誰かを守りたい、失いたくないという切実な気持ちが、恐怖心となって外に向かい、
やがて誰かを傷つけることになる。
命を守ろうとするOSが、命を奪うことに繋がってしまう。
人間というものの本質的で、どうしようもない矛盾だと思う。
厄介だと感じながらも、そこに怒りは湧かない。ただ、深く、哀しい。
かまどの前で感じた、足元からの豊かさ
その一方で、今回のかまどワークショップでは、まったく別の何かに触れていた。
土を捏ねて、形を作って、火をおこして、乾燥させる。一日で仕上げる。それだけのことなのに、あの場の幸福度はいったい何だったのだろう?と、一週間経った今もまだ咀嚼しきれていない。
私自身は、自給自足の生活や、環境への配慮を特に意識しているわけでもない。
ただ、土を形にするのが本当に好きなのだ。
土に触れていたり、鏝を使って壁を塗っている時、フロー状態になる。
時間を忘れる。全肯定できる時間が生まれるのです。
そんな状態でいる自分を「先生」と呼んでくれる人たちがいて、同じように手を動かして、「楽しい」と言ってくれる。
自然の恵みがそこにあって、人の優しさと温もりがそこにある。みんなで享受する豊かさというものが、足元からじわりと湧き上がってくる感覚があった。
それはきっと、生命が本来持っている幸福の本質なのだと思う。
難しい言葉も理屈もいらない。土があって、火があって、人がいる。それだけで満ちる何か。
ナフサショックからの建材不足を頭の片隅に抱えながら、同じ一日のうちにこの感覚を味わった。両極端すぎて、正直まだうまく消化できていない。でもこの二つを同時に体験したこと自体が、何か大切なことを教えてくれている気がして、しばらくこのまま持ち歩いてみようと思います。
豊かさの本質に触れてから、経済を見る
豊かさというものを、身体で感じてから社会を眺めると、景色が変わる。
貨幣経済というのは、もともとこういう豊かさの循環をもっと広げようとして生まれたものだったはずだ。誰かの余剰が、必要としている別の誰かに届く仕組み。
でもいつのまにかそれ自体が目的になって、豊かさそのものを感じにくい社会になってしまった。
自然に触れる、土を触る、火の前に座る。そういうことで初めて、自分が生き物としての命の本質に繋がれる気がする。
エネルギーが湧いてくる場所に戻れる気がする。
かまどには、作るという行為と、使うという生活と、人と囲むという関係性が同時にある。それが他にはない豊かさだと思っている。
職人の役割を、もう一度考える
DIYが広がることで、職人の存在意義が揺らいでいると感じることがあります。
その一方で、こういうワークショップの場では、職人であることの意味がまったく別の形で輝いてくると知った。
技術を見せるのではなく、一緒に作る。知識を与えるのではなく、体験を共にする。DIYと職人仕事の違いというのは、たぶんそこにあるのではないかという答えらしきものが、今回の体験を通じて見え始めた気がしている。
ある意味では、職人は芸事に近いのかもしれない。
技を持った人間が場を作り、場が人を動かす。そういう関わり方が、これからの職人のひとつの形なのかもしれないと、少し楽しみになっている。
いや、本来職人はそうだったんじゃないかな?
効率とか求めすぎちゃって、作業員になっちゃった気がする。
職人は、見られていることも前提で、その所作とか考え、哲学も含めてそれらがバックボーンとなってものが出来るという、マジシャンであるのだと思う。それを実感できたのも今回のワークショップのお陰です。
モノづくりを通じて人と関わるというワークショップという形が、すごく好きになってきた。ありがたいことに他からもお声がけもいただいていております。こういう場にはなるべく参加したいと思っている。
このにじみ出る左官バカ、土の変態を楽しんで頂けたら幸いです。
引田さんのnoteになります。引田さんありがとう。また遊びにいきますね。
















